2015年2月5日木曜日

【イエス行動論51】 悔い改めない町を叱る マタイ11:20~24

悔い改めない町を叱る マタイ11:20~24

主イエスの「叱り」方。

 聖句要点引用

20節、それからイエスは、数多くの奇跡を行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
21節、「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めにちがいない。
22節、しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりも軽い罰で済む。
23節、また、カファルナウム、お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
24節、しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

 共に分析

 イエスによる愛の叱り方とその意味を学びましょう。
 今日の御言葉では、主イエスの嘆きと怒りが認められます。主イエスの感情を重く受け止めたいと思います。
 人を「正しく叱る」には多くのエネルギーと知恵が必要です。そして、愛が必要です。わたしたちは、不法や不合理、無礼を行うと叱られ、または、それら目にすると叱ります。主イエスはどのように叱られたでしょうか。
 主イエスは、まず嘆かれました。21節、~不幸だ~不幸だは、感動詞です。「ああ」「はあ」という単語と同義です。叱りのスタートは、怒りや憎しみではなく、悲しみと嘆きから来ています。次に、嘆かれている理由を言われました。世俗的な異邦人の町と知られる、ティルスやシドンよりも罪深いと言い、その悔い改めの「なさ」を指摘しています。そして、その結果大きな罰を受けることになるとはっきりされました。
 主イエスの叱りのポイントを洗い出すと、①叱りの動機は悲しみと嘆き、②悲しんでいると伝え、その後に何が悪いのか理由を言う、③その結果どうなるか(罰)をはっきりする、となります。
 怒りにまかせて叱ったり、何が悪いのか言わずに叱ったり、悪さへの罰を明確にせず叱ったりするのは、主イエス的ではありません。また、悪口が一切ありません。主イエスは、叱られるときに、悪口を使われませんでした。

 主イエスをこれほど悲しませた、嘆かせたのは一体何でしょうか。
 人間の「悔い改めない」姿です。主イエスの奇跡を経験するという、今のわたしたちが首から手が出るほど欲しく、うらやむ神の祝福を受けてもなお、悔い改めない。目が見えない人が見え、足の不自由の人が歩き、重い病気を患っている人が清められ、死者が生き返っても、悔い改めない。
 現代を生きるわたしたちの中で、多くの人が、奇跡さえ見せてくだされば確信すると考えているのではないでしょうか。その奇跡を見れば、必ず信じようと考え、奇跡を起こらないことにがまんできなくなり、神などいないと結論付け、神から離れてしまいます。
 しかし、果たしてそうでしょうか。奇跡さえ見れば神を本当に愛し、本当に信じ、悔い改めるでしょうか。
 聖書には、特に旧約聖書には、奇跡を経験しても不道徳・罪を犯し続ける人間の姿がいやなほど書かれています。そこから得られる教訓は、奇跡は祝福であり、完全ではないことです。完全なのは、神の救いという祝福と、人間の悔い改めなのです。奇跡はあったらよくて、なかったらないだけだが、悔い改めは必ず必要なのです。
 21節、コラジン、ベトサイダ、23節、カファルナウムは、奇跡を人間中心的に解釈したと考えます。奇跡や祝福を、自分の努力や能力のおかげであると解釈するのです。神がわたしたちのために奇跡を行われたのは、わたしたちが優れているためだなど、間違った選民思想などに酔いしれて、自らの罪を顧みることはなかったと思います。23節「天にまで上げられる」は、自らが神となる、神となろうとする、甚だしき思い上がり、傲慢を指摘しています。
奇跡は万能薬ではないのです。奇跡を受け入れ、解釈するのは罪深き人間だからです。
 実は、次の御言葉に赦しの言葉を言われるのですが、今日は叱りの部分だけに区切ります。

 イエス行動論要約

 イエスの「叱り」には三つのポイントがありました。①叱りの動機は悲しみと嘆き、②悲しんでいると伝え、その後に何が悪いのか理由を言う、③その結果どうなるか(罰)をはっきりする。イエスを悲しませ、嘆かせたのは、人々の不信仰、つまりその「悔い改めない」姿でした。

 今日の試み

 悔い改めとは、何でしょう。
 わたしは、毎日悔い改めの祈りを捧げています。十字架によって、永遠に赦され、救われていますが、毎日神中心的ではないこと、つまり罪を犯してしまうからです。
 わたしがいつもイメージする悔い改めの流れは以下のとおりです。
 自分の罪を自覚する➡その罪深さに嘆く➡主イエスの十字架による救いと赦しを信じる➡心から赦しを求める➡赦され、新たにされたことを信じる➡感謝する➡心を新たにする➡新たに生きる…➡自分の罪を自覚する。
この悔い改めを、1週間、1カ月間、1年間、10年間やっていくと、その変化に驚かされるはずです。心がどんどん清くなり、悪や罪を離れ、神中心的に生きることができるようになります。

 奇跡のテーマを取り上げるとき、いつも思うことがあるので、少しだけ書きます。わたしたちは、超自然的な奇跡を欲しますが、上記のとおり、それが即確信につながる万能薬ではないことです。あなたに、悔い改めの心と神を愛し、神中心的に生きたいという心がなければ、効き目がありません。むしろ逆効果になる危険性もあります。しかし、わたしが強調したいのは、これよりも、私たちの日常、常識の「中に」、奇跡があるということです。地球、自然、植物、動物、人間、宇宙、愛、美しさ、音楽、知恵など、わたしたちが常識として普通に接しているあらゆる事物の中に奇跡があるのです。神の性質が見出されます。この世をそのような心で、目で見ないから、感じられないだけなのです。奇跡奇跡と性急に求める前に、それを受け取る器になること、そして本当の意味で奇跡とは何かを考えることが知恵のある者のするべきことではないでしょうか。


兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
ありのままのあなたを愛します。I love you.
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
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2015年2月3日火曜日

【イエス行動論50】 洗礼者ヨハネとイエス② マタイ11:7~19

洗礼者ヨハネとイエス② マタイ11:7~19

主イエスの他者理解の姿勢。


 聖句要点引用

12節、彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
15節、耳のある者は聞きなさい。
16節、今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
17節、「笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに悲しんでくれなかった。」
18節、ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、
19節、人の子が来て、飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。

 共に分析

 イエスの他者への姿勢とたとえの意味を学びましょう。
 「わたしはチーズのようだ。」「彼女は微生物のようだ。」これらの例え方は主イエス的になり得ます。主イエスは、17節にある通り、意識的に聴衆向けのたとえを用いられました。したがって、料理人にはチーズのたとえを、科学者には微生物のたとえを用いるでしょう。ここに、メッセージや伝道の伝え方の極意があるのです。日本人はキリスト教の存在について認識しており、その主張する教義についてもある程度の知識を持っています。日本の人々に、「あなたは救われた」、「神はあなたを赦される」、「十字架を背負いなさい」などと伝道することは、相手にもよりますが、大方知恵のある行動ではないでしょう。主イエスは、まず日本人の人々がどのような人なのか、どのような文化で持っているのか、どうゆう物の捉え方をしているかを、つぶさに見られます。そして、その人々に合った、適切な方法で教えられるのです。つまり、伝道や教えは、相手を最大限理解しようとする姿勢が重要なのです。一人一人、背景も育ちも考え方も異なるからです。主イエスのような姿勢を持ってください。相手に関心を持ち、相手に合った形で話しましょう。
 当時の子共たちは、今もあると思いますが、結婚式ごっこや葬式ごっこをやっていました。子供たちの遊びで、かくれんぼや鬼ごっこみたいに誰でもやったことがあり、知っていることです。主イエスは他者を理解しようとするその姿勢により、当時の人々が結婚式ごっこや葬式ごっこで遊んでいたことを見たのです。したがって、17節のようにたとえられました。
 17節のたとえは、人々が救いの御手を拒絶する様子をたとえています。
 「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」これは結婚式ごっこですが、主イエスの降臨というこの世において最高の出来事が起き、空前の祝祭ムードになるはずが、誰も踊らないーつまり誰も喜んでいない現実を的確に指しているのです。主イエスがもたらした福音と祝福を、人々が拒絶しているのです。
 「葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」これは、18節に言及されている洗礼者ヨハネのことを指すと考えています。これははっきりわかりませんが、現時点でこれが一番妥当な解釈だと考えます。洗礼者ヨハネは、禁欲的な生活を送り、人々に「悔い改めなさい」と教えられました。己の罪深さを嘆き悲しみ、悔悛を求めたのです。その厳しく、悲しい教えは、主イエスと対照的で、その意味で葬式の歌であると考えます。このたとえにも、人々がヨハネの教えを受け入れない様子がたとえられています。
 このように、ヨハネや主イエスの教えを聞かない、受け入れないため、15節、「耳ある者は聞きなさい」と言っているのです。

 イエス行動論要約

 イエスは他者を理解する姿勢を通して、人々の不信仰と救いへの拒絶をたとえられました。

 今日の試み

 本当に誰かを救いたいと思うならば、その人を本気で理解する必要があります。隣人愛の実践とは、抽象的にみなを愛することではありません。みなを愛するという意味では平等性がありますが、その愛は具体的であるべきです。救いたい人のことをもっと知りましょう。その人はどういう過去があり、どういう文化で育ち、どういう考え方を持ち、今どういう境遇にあるのかなどを熱心に知ろうとする姿勢を身に付けましょう。愛の反対は無関心なのです。主イエスは目の前の相手をつぶさに見られ、他者を理解されます。

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2015年2月2日月曜日

【イエス行動論49】 洗礼者ヨハネとイエス① マタイ11:2~6

洗礼者ヨハネとイエス① マタイ11:2~6

主イエスによる、洗礼者ヨハネへの御言葉。
















 聖句要点引用

2節、ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
3節、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
4節、イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
5節、目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
6節、わたしにつまずかない人は幸いである。」

 共に分析

 イエスの知恵と慈しみを学びましょう。
 主イエスを信じない人たちも、主イエスについて知っている人たちは、主イエスの知恵を認めます。主イエスのたとえ、解釈、教えには知恵の宝石がちりばめられており、ノンクリスチャンも多くを得ています。今日の御言葉で主イエスの知恵が如実に表れているのは5節の箇所です。知恵とは、対象とする事物の知識を有し、目的を達成するために知識を応用することです。実は、5節は旧約時代の預言者イザヤが預言したものに基づいています。
 イザヤ書35:5~6
5節、そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が聞く。
6節、そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。
 内容が非常に似通っているため、おそらくこの預言を意識して語られたと考えます。
 つまり、まず知識のレベルで、旧約時代の預言に精通し、熟知していたことがわかります。
 しかし、なぜわざわざ預言を想起させる言葉を使ったのでしょうか。ここに、知識の応用である、知恵が認められます。それは洗礼者ヨハネにとって必要な言葉でした。2節と3節を読むことで、ヨハネの心情をイメージできます。ヘロデ王の不法を批判したことで牢に放り込まれたヨハネは、最終的に斬首刑を受けて死にます。3節は、かの洗礼者ヨハネには似つかない言葉です。ヨハネは主イエスが誰であり、なぜこの世に来られ、何をするのか、はっきりとわかっています。主イエスに洗礼を授けた人です。にもかわらず、さらなる確証を求めています。おそらく、過酷な投獄生活、死への恐怖、想像していた主イエス降臨が合っていなかったため、心が弱くなったと考えます。では、ヨハネにとって何が確証となるのでしょうか。
 「預言」です。預言とは文字通り、預かった言葉である、それは預言者を通した、神ご自身の言葉なのです。したがって、有無を言わせない絶対性があり、確証となり得るのです。主イエスが、旧約時代の預言をベースに、その預言が成就していることを伝えなさいとしたのは、こういう理由があったのです。
 さらに、ヨハネの弟子たちに6節、「わたしにつまずかない人は幸いである。」と言いました。ヨハネのつまずき、いわば不信仰に慈愛の言葉で接したのです。つまずきを覚えているヨハネにとって、主イエスの返答は宝のように頼もしく、救いとなったはずです。

 イエス行動論要約

 イエスは、洗練者ヨハネに確証と慈しみを与えました。預言の成就で確証を、御言葉で慈しみを。

 今日の試み

 洗礼者ヨハネはマタイ11:11にありますが、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者より偉大な者は現われなかった。」とあるように、ナンバーワンクリスチャンです。しかし、そのヨハネですら、過酷な試練にぶつかり、確信が揺り動かされました。これは、人間として仕方のないことかもしれません。ただ、ヨハネが優れていたのは、神に確信を求めたことです。試練に直面して、神に背いたり、諦めたりするのではなく、耐えながら求めたのです。
 あらゆる誘惑に無敵であるのがクリスチャンではなく、倒れても神を求めて再起できるのが本当のクリスチャンであると信じます。人間は人間なのです。それ以上も、それ以下もないのです。

兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
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